2023.02.14.02.07. -

 

上野、19:21分 食事の席にて。




「写真は鏡だ」

とは写真家、上田義彦氏の言葉であるが、ふと食事中にそれを直接的に意識する出来事があった。
 
私は 暖色の灯りに照らされながら食器の擦れる音や心地よい談笑の中食事をしている。

左奥  隅の席で。 


だが、 それと同時に、より入口寄りの真中の四人席で私は友人夫婦二人 (ほとんど家族と呼んで良い程の親しい二人)

と談笑を交え食事をしている。


おそらく、その時の会話は "今日" まさに目の前で食事をしている その人に関する話題だったと記憶をしている。 

あの時の私は "今日" という出来事のことは知覚していないが、この空間という状況の存在一点に着眼した際に、

過去と現在の私は同時に同列にこの空間に存在している。

そして、その物理的事実に "今" や "過去" という (人間の社会的尺度としての) 時間的意味付けをするのは

「なにを食べた」という事実を記録するための料理の写真なのだ。 (少なくとも私にとってはだが)



私は全く同じ場所でほとんど同じ構図の写真を撮ることが多々ある。

その写真単体で観た時には(画としての評価は別として)無意に近いが、

時間的尺度で比較・対比した時に意味が生まれるだろうとの意 (≒タイポロジー) と同時に

それほど遺したいという感情を掻き立てられる対象であることがあるからだ。 

前段の文の事項を前提に置いて考えた時にも、やはりその被写体の前には複雑に重層化された 私という観察者の目線がある。

時間的尺度を廃し物理的存在と状況という現象に着眼すれば、やはりその場所にはたくさんの私が同時に存在している。 

そしてそこに意味付を与えるのは「写真」という「窓」なのだ。 

私は大量に並べられた近い写真を眺めては手に取り "その先" に目を配り読むことで、

その被写体の時間的尺度を手がかりに被写体の同時代性、ひいては撮影者である私自身をも読むことになる。 


やはり写真とはとても優秀な鏡なのだ。

時間とは本来遺された物理的痕跡の中にこそ存在しているものなのかもしれない。

(読むことによって我々に意味付を与えてくれるプロトコルのようなソフトウェア?)




またこういうのはどうだろう。 

あなたが幼少の頃から家族と大切な時に決まって訪れる店があるとしよう。

あなたが成長し歳を積み重ねていく度に家族はその店を訪れる。 

決まって、それは窓際のあたたかなソファの席だ。

テーブルクロスは赤と白のタータンチェックかもしれない。 そしてその店は今もあるのだ。


あなたがふとその店と家族が積み重ねた時間を振り返る時、

時間でなく場所と状況の存在という物理的事象に着眼する時、

あなたは同時にその場所に存在し続ける。

そしてその状況という事象に時間的意味付を与えるのは

あなたの成長した姿や遺る笑顔の写真かもしれない。 

家族アルバムとはだからこそ輝くのだ。

(ちなみに上記に該当する私の記憶である千葉県鎌ヶ谷市の家庭的イタリア料理店トスカーナは既に存在しない)



話を冒頭に引き戻すが、(谷川俊太郎は二十億光年を旅して それでもなおくしゃみをするのだ) 

数分の間に頭を四方八方に拡げながらそんなことを思っていたら、

恋人はそんなことをよそに屈託のない笑顔を向ける。

どうやら私の鶏肉を狙っているらしい。



2023.02.14.02.07.

Yamato Ogawa.